「サッチャー錯視」とは、上下さかさまに反転させた倒立顔において、各パーツの局所な特徴変化の検出・判断がつかなく現象。なお、各パーツの変化は上下が正常な正立顔になったとたん、カンタンに検出・判断できるようになります。この錯視はヨーク大学のピーター・トンプソン(Thompson)が発表した"Margaret Thatcher : a new illusion"という論文にもちいられたイギリス元首相マーガレット・サッチャーの画像にちなみ命名されました。この論文によると、人が普段 目にしない「倒立」したイメージの認識がいかに苦手かがわかる…とのこと。 おなじように「上下逆さの石膏像を描くこと」はデッサンになれた人でもかなりむずかしく、人間の目は、普段目にしているものを逆さにされた途端にうまく認識できなくなることをあらわしています。
▲サッチャー元イギリス首相の顔写真をつかった「サッチャー錯視」
http://www.moillusions.com/margaret-thatcher-illusion/
…という上記の説明文は、いろいろなサイトから集めてきた文章を最構成した説明文です。
ただし、私個人としてはこの「サッチャー錯視」が起こりません。もしかすると、子どものころから写真みたいな絵を描くことを遊び・暇つぶしにしていたからかも…。絵を描く際に気をつけなければならないポイントに「制作途中の絵を自分で汚してしまわない」ことがあり、右手や左手の位置が重要になります。なので絵を横にしたり、逆さまの状態で描くことが多く、慣れてしまっているからかもしれません。それからよくある「ゲシュタルト崩壊(独: Gestaltzerfall)」も私自身には起こりません。小さいころから文字のデザイン(タイポグラフィー)に興味があり、中学生のころからレタリングを通信教育で学び、近所のお店のポスターを描かせてもらっていたからでしょう。
ただし、文字に色が見える、音が色をともなっているなど「共感覚(シナスタジア、synesthesia)」といわれる生まれつきの特質はもっていません。ということは「サッチャー錯視」や「ゲシュタルト崩壊」といった感覚は後天的なものなのでしょうね。だからかもしれませんが、そういった後天的な特質を持っていたからといって、なにかで得したことは一度もありません。
ゲシュタルト崩壊(独: Gestaltzerfall)とは、まとまりのある構造や形態、バランス構成に対して過去の経験や認識がいかされず、個々の構成パーツに対し疑惑が生じる認識崩壊現象のこと。1947年、V・C・ファウスト(V. C. Faust)によってひとつの失認症候として報告されましたが、持続的な注視(じっと見つめ続けること)にともなって健常者にも生じることが知られるようになりました。いまでは認知心理学の視点から「文字のゲシュタルト崩壊」が研究されていて、知覚現象におけるバランス感覚の喪失のひとつとして有名です。文字や顔(ゆがんだ鏡に映った自分の顔を正しく守成するなどの実験が有名)など普段目にしている視覚的なものに起こりやすいとされていますが、聴覚や皮膚感覚においても生じうる…らしいです。
身近な例をあげると、同じ漢字やひらがなを長時間注視しているとその漢字の各部分がバラバラに見え、その漢字やひらがなが、何をもってその文字であったかわからなくなります。たとえば平仮名の「あ」を長時間凝視したり、連続して大量に書き続けた場合に「あ」という文字はこんな字だったかな? と思ってしまうことって、誰にも経験がありますよね。
私自身もレタリング(文字を描く仕事)を習い始めたころは、この「ゲシュタルト崩壊」にかなり頻繁に苦しめられましたが、いまではほとんどありません。なぜならゲシュタルト崩壊が起こるまえに自分から回避することを憶えたからです。ゲシュタルト崩壊は、失認現象としては面白いかもしれませんが、文字を描く仕事をしているときには「ただただ迷惑な錯覚」であって、仕事の邪魔でしかありません。訓練次第でゲシュタルト崩壊は回避できるようになります。
共感覚(シナスタジア、synesthesia)とは、五感におけるひとつの刺激に対して、通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚を脳内で認知する「一部の人にみられる特殊な知覚現象」をさします。 平たくいうと文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりすること。日本語だけでなく各国の言語に広く存在することが知られている<女性の高い声を「黄色い声」と表現する>ような共感覚をともなった比喩的表現は、共感覚の範疇には含まれていません。
とくに共感覚のなかでも、音楽や音を聞いて色を感じる知覚は「色聴」といわれ、絶対音感を持つ人のなかには割合が高いそうです。しかしながら数字に色がついて見える人同士に、色の関連性がみられないように、とある人が何かの文字を青く感じたとしても他の共感覚者がおなじように感じる傾向があるとはかぎりません。
けれども特定地域(東南アジア)の文化のなかには、共感覚を受け入れているところもあります。
「カエルの鳴き声は茶色」「鈴は銀色の音色」「怒っている声は濁色」「愛情をこめて語る声はバラ色」などと、共感覚をもっていない我々でも何となく納得できる関連性ですね。